最近、僕の書くブログは村上春樹風だとか、海外文学の翻訳風だとかあちこちで言われるこようになりました。
けれども、初期に書いていたブログに関しては(いわゆる日本風制度的文体であったからだと思いますが)、RIOさんのブログってなになに風ですよね?とは言われることはありませんでした。
誰が書いたか忘れましたが、小説の中でこんなことを書いていました。
誰かに真剣に何かを伝えたいと思ったとき、みなが使う常識的な文体を使ってはいけない。
小説だって商売だって常識から外れることでしかうまくいかない。
常識に埋もれてしまえば、常識的な成功しか手にできない。
常識とはなにか。
それは平凡である。
平凡において成功することはない。
平凡とはそういうことだ。
はっきりと覚えていないので正確ではないですが、おおむねこんなことが書かれていました。
それを読んで以来何をするにもその言葉が頭から離れなくなりました。
そして僕は何より文体を重視に書籍を選ぶようになりました。
川端康成。三島由紀夫。太宰治。夏目漱石。芥川龍之介・・・
そして第三の新人と呼ばれる文豪たち。
形式美に優れていて美しいのですが、どうも僕の足には馴染みませんでした。
とはいえ、現代のエッセイストや芸能人がスラング的に書くものも僕の好みとはちょっと違う。
論文や新聞のような無機質で味気ない文体はおそろしく文学には向かない。
エンタメ系小説もライトノベルも内容で勝負していて文体では勝負していない。
文体だけで言えば日本の作家からはこれといったものは見つかりませんでした。
(まだ読んだことがない作品の中にあるのかもしれませんが)
いつしか僕は海外文学へとたどり着いていました。
日本語の新しい可能性は海外の言葉を日本語に置き換えたときに生まれるのかもしれない。
日常では起きないすれ違いのようなものが常識から外れた言葉を使うきっかけになるのでは?
海外文学で使う文体以上に面白い文体を見つけることができれば、さらに新しく取り入れて僕のオリジナルな文体の肥料にしていきたいところなのですが、いまのところそういった文体を日本の作家が書いた作品から見つけることができません。
日本の作家で好きなのは村上春樹くらいですが、村上春樹も海外文学に相当影響されています。
ちなみに最近この文体はすごいなあと思ったのはアゴタクリストフさんの作品です。
彼女はハンガリーの作家なのですが、ハンガリー動乱でスイスに亡命したので慣れないフランス語を使って書いています。
平易で簡単な言葉を使って、これほど深い物語を書けるというのはほんとうにすごいことです。
言葉の奥深さを思い知らされます。
自分が面白いと思った作家が書いた文体を真似して書くように努め、一旦僕の中に取り入れて、いまあるものと新しいものとで再構築していく作業を繰り返していけば、あと三年くらいできっとRIOオリジナルの文体が完成しているに違いない。
そう勝手に思っています。
その文体が完成したら、何度も何度も手を入れて洗練させていきたい。何かしっかりとした大きなものを書いてみたい。
僕の願いはそれだけです。
それだけが唯一神社でお祈りしたいことなのです。
(もちろん現実の幸福を担ってくれることも二番目にお祈りしています)
店長から最新の伝言。
6月27日(日)の唐津ボートがあります。(年4回のうちの今回二回目)
7月3日(土)志賀島でナイトダイビングもあります。(年2回のうちの今回一回目)
唐津のボートは案外人気で残り2名らしいです。
ボートダイビングをこれまで一度もやったことがない人、ひさしぶりな人。
ナイトダイビングをこれまで一度もやったことがない人、ひさしぶりな人。
そういう人たちを優先的に入れていきたいそうですが、そうでなくても予約は可能みたいです。
ただ、どちらも早めに入れておかないといつの間にかキャンセル待ちになるそうですよ。
RIO