快適ダイビングの重要性

潜れさえすればいいと思って、器材を選び、買っている人は、海の中の様子を見て回ることにしか興味がない。

海の中を見ることだけに、執着するのであれば、快適かつ丈夫で、おしゃれに見える器材はまるで必要ない。

僕はそういう考えを持つ人たちと潜ると、このような情景が目に浮かぶ。

 

佐賀の波戸岬にある海中展望台でチケットを買い、階段をおりると、水圧に耐えられるよう建物は丸い構造になっており、縦長の楕円形の窓がぐるりと等間隔で並んでいる。

外の世界に通じる窓から玄界灘の外海を観察する。

長く水中に沈んでいるアクリル樹脂製の窓は、コケのようなものが覆っており、海の世界は夜気を覚えたように寂寥としている。

窓におでこを寄せて、目を凝らし、外の様子を凝視する。すると、目の前に魚の影がよぎるが、魚の種類はマグロと鯖と鯛くらいしかわからない。

そこで、あれは鯛に似ているからおそらく鯛の仲間だと判断する。

ほどなくすると、見える魚は全て、係員が撒いたエサに寄ってくるものだけだとわかると(数種類しか見れない)、「お腹が空いたから帰ろうか」と、海中展望台を後にする。帰りがけに予約しておいた、レストランで夕食をとり家路につく。

次の日に、頭に残っているのは、一緒に行った人の名前と顔と、食べたメニューだけだ。

 

そういった方たちは、経帷子のような真っ白いドライスーツを着せられても、目立った情動は見受けられない。ただ、潜れればいいのだから。

しかし、海の世界をコスモポリタンに過ごすのであれば、それはいただけない。

 

僕は、陸の世界で着ている衣服同様、器材は、自分の体の一部のようにストレスがなく、どのように見られても胸を張れるようなおしゃれを兼ね備え、海と陸の境界線を限りなく薄くすることに全力を尽くす。

なぜなら、僕はダイビングを散歩のように捉えているからだ。

今、舞鶴公園を歩けば、花が散りかけた桜の木が新緑を知らせているし、暖かく湿った土の匂いは虫たちの起床時間を告げている。

それは春に移り変わったことによる安心感と安堵感により、セロトニンが脳全体ふんわりと包んでいく。

そこに何も特別なものはない。土と木と芝生とベンチだけ。いつもの風景に何かを足したり引いたりしたような構図があるだけだ。

ストレスを感じることなく、ブラブラ歩く何気ない散歩。

毎日でも飽きないこの散歩こそが、僕にとって最高の滋養になる。

たまには、海外にある目新しい公園で、BBQもいいかもしれない。しかしそれはほんのごくわずかの時間で、僕の心は事足りてしまうのだ。

 

海の世界を陸の世界同様、普通の散歩として勤しもうと思うと、シビアな調整を求められる。

調整も散歩の楽しみの一つであるので、慎重にかつ楽しみながら、身体の特性に耳を傾け、選んでいく。

調整が終わると、今度は散歩のルートを覚えなくてはならない。迷っているうちは散歩とは呼べない。知らない場所に潜るのはアドベンチャーと呼ばれる冒険の部類になるからだ。

そして、迷っても、流されても、一人ぼっちになっても生きて帰ってこれる知識と技術は、セロトニンを出すためには、必須のものとなる。

 

次に、虫や花の名前や生態を覚えた方が、散歩に奥行きが出る。知識なき経験は、単なる経験に過ぎない。

生き物たちの変化を写真に収めて、あとからゆっくり味わうことも、海の世界を諦観する一助となる。

 

そして、陸の散歩は一人でもいいが、海では一緒に歩く人が必要になる。

無言で歩くより、コミュケーションをとった方が、より思い出に残るだろう。お互いが満足する散歩はなかなか見つけずらいが、見つけた時の喜びは、何事にも代え難い。

 

僕はさらに、季節や天気、気分に応じた自分だけのルートを開拓する。

どの場所に行って、何を見るのかは、海の中で決める。

直感と感性で泳ぎ、海を感じる。

帰ってきたら、夜の陸散歩で、海との違いに驚かされる。

 

ダイビングを趣味として捉えた場合、一番楽しいダイビングはおそらくこれで間違いない。

(仕事として楽しいダイビングと趣味として楽しいダイビングは違う。)

 

人それぞれに楽しみ方が違うダイビングは、その楽しみを、どの深さまで掘り下げるのか、自分の心に聞く必要がある。

 

子供の頃から海で過ごしてきた僕にとって水中とは、限りなく深い、日常でなくてはならないのだろう。

 

 

RIO