僕は子供のころから、お笑いへの関心が人並み以上に強かったので、世に現れる事象がおもしろいかどうかについての考察には余念がありません。
だからでしょうね、切れ長の瞳をもつ洒脱なイケメンが、ベンツのオープンカーのハンドルを左手に持ち、もう片方の手をミニスカの美女の肩にまわしていてもぜんぜん平気。嫉妬の渦は潮止まり。
かっこつけていないとダメだなんて、窮屈な人生だなあと思うまでです。
そのかわり、ひときわ、おもしろい人に会うと、嫉妬がぐるぐると湧いてくると共に、めらめらと闘志がわいてきます。
恥ずかしながら、最近ではまゆこんぐとせなこんぐの姉に若干の嫉妬をしました。
すいません。
僕は人前に出て芸をみせたり、面白いことを言ったりする芸人タイプではありません。
裏で構成を考える、作家タイプ。
そういうタイプの人が何かおもしろいことを考えついたとしても、自分ひとりでは、そのおもしろさを100%人前で発揮できる能力をもっていません。
それゆえ、思い通りに動いてくれる実行者(演者)を探す必要があります。
それがなかなかむずかしい。
世の中には、思い通りのキャラで動いてくれる人が少ないんですね。
冷静に考えてみたら、本気で人を笑わせたいなんて思っている人が、そもそもいないんですから仕方がない。
かといって、僕自身が人生をかけてお笑いの世界に踏み入れようとまでは思わないので、そこはうまく折り合いとつけて、やっていくしかありません。
僕はいつしか、その救いようのない気持ちを、ダイビングの仕事で憂さ晴らしをする癖がついてしまいました。
プロサーファーになりたくて、海のそばで民宿をはじめるようなものです。
では、ここで僕が普段の生活の中でおもしろいと思うものをあげてみます。
まず考えつくのは、漫才やコントといったネタのおもしろさ。
長い時間をかければ、誰だってそこそこ面白いものが作れると思いますが、いかんせん、ネタは披露する場が限られます。
見る方だってポテチを食べながらゴロンというわけにはいきません。
それなりに襟を正す必要があります。
また、演者のキャラにあった素晴らしいネタができたとしても、同じ人に何度も通用するものではありませんので、日常生活においては現実的ではないと考えます。
でもこれがわらいの王道ですので、僕は一番好きです。
次にモノマネ。
モノマネは一発芸的で非常に使いやすいですが、日常生活においては会話の途中に折り込む必要があるため、そもそもの会話力といいますか、話題力がないと厳しいものがあります。
会話が下手な人が、モノマネをしてうけたいのなら、人気モノマネユーチューバーレベルくらいのクオリティーがほしいところです。
次にフリートーク。
これは大喜利みたいなものですから、ワードセンスとトーンと間(ま)が大事になってきます。
話の経験を積むことと、読書による言葉の勉強が必須。(漫画やアニメは効果無し)
次に写真や動画による視覚的なおもしろさ。
これは手軽でコスパがいいです。
変顔写真。
たまたま撮れたおもしろ動画。
むずかしいことを考える必要がなく、見せる相手にその写真についてのちょっとした言葉を添えさえすればわらいがおきます。
日常生活においてもっともポピュラーなわらいです。
変顔を撮られてしまった人も、それは本当の自分じゃないからと、割り切ってわらうことができますから、みんなが幸せになれます。
しかし、僕はあまり「絵的なおもしろさ」に頼るのは好きではありません。
なぜならばそこに、個人的な人間本質のメインストリーム、あるいはヒューマニズムみたいなものが、一幅の絵として表出してこないからです。
僕が考えるおもしろさは、恥も外聞もなく、ポストモダンも整合性もなく、捨て身でクラッシュするさま。
その人が考える「おもしろいとおもえるもの」を、誠実に、嘘偽りなく、切腹する武士のように、ためらわず、ひるまず提供すること。
失敗したとしても言い訳しない。取り繕ったりしない。そしてあきらめない。
それが今の実力なんだと受け止める。
ある種の矢と鉄砲が飛び交う戦場を、生身の体で通過できた人だけが、真のおもしろさに挑戦できる権利が与えられる、と思っています。
だからおもしろいというのは奥が深い。
まあ、そんな人がそうたくさんいるはずがないか。
しかしながら、どんなにつまらなそうな人にも、ちょっとくらいの「おもしろさ」は隠れているはずだ、という確信もあります。
わらいの基本は「緊張と緩和」なわけですから、そこをナチュラルに引き出せばどうにかなる。
素材の味を、生かすも殺すも作家の腕の見せ所。
もちろん僕は作家ではありませんが、人生を楽しくするためにそのくらいの努力はしてもいいはずです、よね??
RIO