今日はひさしぶりに何もない1日なので釣りにでも行こうと思ったのだがやめておいた。
明日のダイビングに響くからだ。体力的に。
このへんの釣り場でやればいいわけだが、この辺だとどう頑張っても小指ほどの鯛か中指ほどのクサフグしか釣れない。
白瀬で見れる大きい魚は釣るのが難しいのである。
良型の魚を釣りたければ、最低でも3時間は車で走る必要がある。
早起きは必須だ。
フカセ釣りでは、釣れようが釣れまいが、集魚剤を大量に購入しないといけない。
撒き餌を作るのに20分以上こねるし、その大量の撒き餌を何百回も海に撒く。
体にもかかるのでどんどん臭くなってくる。
仕掛けは繊細だから作るのがめんどくさく、小さなウキを長時間見ていないといけないので集中力も必要だ。
帰ってきてからも、汚れた道具一式を洗わなければならない。
魚を持って帰ってきたら、捌いて内臓をきちんと処理しなければならない。
そのめんどくささはダイビングの比ではない。
なんでそんな趣味をやっているのかと聞かれたら「面白いから」に尽きる。
帰りの運転は眠くてくたくたになるし、憂鬱になることもしばしばである。
タイパでいうと非常に悪い。
(タイパを求めるなら、エギングがおすすめ)
ちなみに、タイパとは、「タイムパフォーマンス」の略である。(フカセ釣りはタイパが死ぬほど悪いwww)
例えば、映画やドラマといったコンテンツを2倍速3倍速でみることで、「時間の節約」をはかるというものだ。
しかし、よくよく考えてみるとコンテンツと呼ばれているものは無限にある。
「小説」というコンテンツひとつとってみても、一生かけても読破することはできない。
オーディブルの5倍速で、5倍早く小説を読むのが、タイパいいということである。
タイパは僕らの人生を豊かにしてくれるのか。
それには疑問が残る。
「小説を読む」という行為について考えてみたい。
小説を読むには、本屋に行って本を買うところから始まる。
Amazonでも構わないが、本屋で買う方が雰囲気があっていい。
その理由は、文学青年、文学少女、文学おばさん、文学おじさんたちが本を包んでくれるからだ。
(本嫌いは本屋で働かないであろうという前提であるわけだが)
本を大事にしている人たちから買うのは気分がいいのである。
そして、小説はできるだけハードカバーがおすすめだ。
表紙から、帯から、出版社の意気込みを感じるし、本自体の重さに物語の重さを感じるからだ。
ページをめくる。
新しいインクの匂いが漂ってくる。
何ページかめくると冒頭部分がはじまり、いよいよ物語がスタートするんだという高揚感を味わう。
ローソンで買ってきたアイスアールグレイティーを一口飲む。
頭がスッキリしたところで、ストーリーテラーの語る新規の物語にのめり込んでいく。
そうやって読み終えた小説は、何年にもわたって当時の読後感を味わうことができる。
同じ小説をオーディブルの5倍速で聴いた場合、どれだけの感動を僕たちに与えてくれるのか。
どれほどの「体験」を与えてくれるのか。
確かに5倍速で聴いても、ストーリーやセリフは入ってくるだろう。
しかし、それは「情報」としてのストーリーであり、セリフである。
情報は耳に心地よいかもしれない。
情報は得した気がするかもしれない。
情報はあればあるに越した方がいいような気がするかもしれない。
しかし、情報はあくまで情報であり、体験も感動も哲学も与えてはくれない。
頭の中に入ってきて、時間と共に忘れさられていくだけの存在。
それが情報。
コンテンツ(情報)は無限にある。
有限の時間の中で、無限の情報を手に入れたところでなんになるというのだろうか。
生身の人間である僕らは「情報」を求めているのでなく「体験」を求めている。
そのために生きていると言っても過言ではない。
結論、タイパを求めるなら生きていない方がいいということになる。
趣味はできるだけ、めんどくさくて、辛くて、お金がかかって、それでいて心にずしっと残るものをおすすめしたい。
それは快適であっても快適でなくてもいいし、暑すぎても寒すぎてももいい。
「効率」と「タイパ」からかけ離れたところに自分を持っていくのである。
そうやってコツコツ貯めた思い出は、年をとってからの人生をあったかくしてくれるものなのだ。
僕はそう思う。
RIO