どこから手をつけるべきなのか、今ではもうはっきりわかっている。
1週間くらい前だろうか。
僕は当たり前の風景に、ある種の違和感を、断片的に感じるようになってしまった。
なぜそんな風に思うようになってしまったのか、正直なところ僕にもわからない。
なにか理由をあげるとすれば、季節がはっきり変化したことによる生理的な発露。
あるいは、僕の体調の変化による気分変調症のようなもの。
書いていて思うけれど、僕の心はひどくまだらなんだと思う。
「きみはそのことについてどう思う?」
相談された相手が、(僕よりも)神経症的傾向が低い場合、まず間違いなく「それほど気になるもんでもないけどなあ」と答えるだろう。
実際のところ、僕よりも神経症的傾向が高い人というのは、そうそうお目にかかれるものではない。
僕は救い難いまでに、細かいことが気になるタチなのだ。
つまりは、世の中のほとんどの人たちがまったく気にならないことを、僕だけはしっかり気にしている。
誰もがどうでもいいと思っていることで、必要以上にイライラしている。
とある分野における神経質の権威と言っても過言ではない。
僕の心臓は、常日頃からライオンの檻に入れられているのと同じくらい負担がかかっていると思う。
僕は今すぐにでも、心臓外科医の友人を作っておくべきなのだ。
さて、もうお分かりだろうか。
僕が何にたいして、イライラしているのか。
正解は、
「ダイブショップサンライズにモノが増えてしまっている」ことである。
ここ1週間で捨てたものは、木材、工具、器材、植木鉢、お店の備品などなど。
特に捨ててすっきりしたものは、枯れたハイビスカス(今季2鉢目)と腐ったパッションフルーツの苗(2株)である。
今年は夏っぽい花と夏っぽいフルーツで、酷暑を乗り切ろうと思っていた。
久山植木の店員さんは、パッションフルーツはあっという間に枝をのばして、日差しを遮ってくれますよ、と言っていた。
トロピカルなベランダを作り上げる夢は、わずか3週間で儚くも散ったのだ。
腐った木と土を捨てることには抵抗はなかったけれど、買ったばかりの植木鉢を捨てることには抵抗はあった。
もう一度育てることをあきらめきれなかったから。
でもよくよく考えてみれば、これまであの小さなお店でどれだけの植木を枯らしてきたのか。
今となっては数えきれない。
思い切って植木鉢も捨てた。
来年になったら使うかもしれないと思った機材や備品も迷わずゴミ袋に放り込んだ。
どこかに使えないか試したりもしたけれど、今必要のないものはいらないものだ。
来年必要になることがあれば、また買えばいい。
そんなことを言うと金持ち発言みたいに聞こえるかもしれないけれど、決してそういうことではない。
古いものに囲まれていることが、ただただ息苦しいのだ。
そんな空間にいるだけで、酸素が薄くなる感じがして誰かと話していても上の空になる。
フィジカル的にも、背中から腰にかけて重くなる気がする。
脊髄の一部を支配されたように動きが鈍くなったような気がする。
まるで、深い海の底をおもりをつけて歩いているような気分なのだ。
使わないもの、古いもの、というのは僕にとって、生き霊そのものだと言っていいかもしれない。
ほおっておけば、やがて僕は身動きが取れなくなって、地縛霊みたいなおじさんになるんだと思う。
徐々に、頭の芯にメントスが埋め込まれたみたいにスッキリしてきた。
足のむくみが取れ、膝にたまった水が抜け切った。
これで今年の夏を乗り切ろう。
思い出の品なんかいらない。
過去の栄光もデータで残っていればいい。
正直に言うとまだまだ捨てたいものはたくさんあるけれど、これ以上捨てるとクレームがきそうなので、残りは小物だけにします。
というわけで、明日は断捨離最終調整です。
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(コンマリの本でもいいけれど、無駄にかわい子ぶってるから嫌い)