僕はテレビを見るのをやめて、キッチンに向かった。
そこには、平成元年式の三菱製大型冷蔵庫が、充電の切れかけた電動ドリルのような音を、キッチン一帯に響かせていた。
この冷蔵庫は、僕は社会人になってからの2年間、遊ぶお金を節約して買った冷蔵庫だ。
多少の騒音はあるものの、冷やす能力に問題はない。
僕は機能を最優先するタチなのだ。静かであるかどうかは問題がない。
僕は冷凍庫の扉をあけた。
すると、昨日までそこにあったはずの、鶏の胸肉10キロがなくなっていた。
この胸肉は、2日前にインターネットで買ったばかりの、お笑い芸人なかやまきんに君がプロデュースした胸肉だった。
その名も、パワーチキン。
1キロ2500円もする、高級胸肉である。
その胸肉のあったはずのところにはドーナツの穴のような空洞ができていた。
その周りには食べかけのインゲンやチャーハンといった冷凍食品が固めていた。
僕は間違って冷蔵のほうに入れてしまっていないかを確認するために、冷蔵扉をあけた。
パワーチキンは入っていなかった。
パワーチキンの保存方法は冷凍なのだ。
冷蔵庫の方に入れてしまうと、一気に解凍されて、10キロの胸肉を2日くらいで食べなければならなくなる。
大食いの僕でも、さすがにそんなことをするはずがない。
もしかしたら、母親が昨日、僕がいない間にたずねてきて、実家に持って帰ってしまったのかもしれない。
そう思った僕は、すぐさま電話をかけようと思ったが、時間はすでにAM2時を回っていた。
そもそも、家族のなかで、胸肉を食べる人は僕しかいない。
なぜなら、僕を含めて、家族全員100キロ越えの巨漢だからだ。
脂身のない鶏の胸肉なんかに、手をつけることなんてありえない。
僕だってダイエットがなければ、こんなパサパサした鶏の胸肉を食べることなんてないのだから。
玄関のチャイムが鳴った。
僕はインターホンの受話器をとった。
「はい?どちらさまでしょうか?」
「ハイ?ドチラサマデショウカ?」
「えーっと。どんな御用件でしょうか?」
「エーット。ドンナゴヨウケンデショウカ?」
「真似をしないでもらえますか?」
「マネヲシナイデモラエマスカ?」
「今、そちらに行きますので」
「イマソチラニイキマスノデ」
これはなんのいたずらだろう。
僕は扉の前まで移動して、覗き穴をのぞいてみた。
そこにいたのは、頭は鶏で、体はバイソンのような筋肉ムキムキの鶏だった。
ニコニコした顔つきで、こちらを眺めている。
よく見ればそれは、パワーチキンである。
僕は明日の朝9時に、パーソナルトレーニングを予約しているのだ。
早く寝なければ、ふらふらになってしまう。
なんていったって、明日は一番きつい脚の日なのだ。
「なんのようですか?」と僕は扉越しに尋ねた。
「ナンノヨウデスカ?」とパワーチキンが言った。
「それを聞いているんですけど」
「ソレヲキイテイルンデスケド」
「寝ないといけないんですけど」
「ネナイトイケナインデスケド」
「ケンタッキー州に帰ってください」
「ケンタッキーシュウニカエッテクダサイ」
トーク好きなパワーチキンほどやっかいなものはいない。
「庭には鶏が二羽いました」と僕は早口で言った。
「ニワニハトリガニワイマシタ」とパワーチキンは早口で言った。
「マグマ大使のママ マママグマ大使ノママママ」と僕はさらに早口で言った。
「マグマタイシノママ マママグマタイシノママママ」とパワーチキンもさらに早口で言った。
「今のは、マがひとつ多かったぞ」
「イマノハ、マガヒトツオオカッタゾ」
「あいうえおあおあを」
「アイウエオアオアオ」
「今の最後の「お」は「を」だぞ」
「イマノサイゴノ「オ」ハ「オ」ダゾ」
「また間違えてるよ」
「マタマチガエテルヨ」
「でもね、そんな小さいことは気にしません」
「デモネ、ソンナチイサイコトハキニシマセン」
「フカフカ芝生を思い出す」
「フカフカシバフヲオモイダス」
「こけこっこーの子守唄」
「コケコッコーノコモリウタ」
「コケコケコケコケ」
「コケコケコケコケ」
僕はキッチンから、刃渡り30センチの出刃包丁を取り出し、扉を開けた。
パワーチキンの喉元めがけて、水平に方向に一太刀あびせた。
パワーチキンは寸前のところで、身をひるがえすと、一目散に非常階段を駆け降りていった。
僕はまたしてもパワーチキンを手に入れることができなかった。
RIO